Vol.54 2011.10.11
発行/編集 全国商工会連合会
http://www.shokokai.or.jp/

「いくつもの挫折を超えてつかんだ夢を、勇気と忍耐と努力そして感謝の気持ちが実現していく」/前編

株式会社エス・ティー・ジー大阪虎屋 取締役相談役 塩崎 凱也

 7度の失敗と挫折の日々がたくさんのことを教えてくれた。8度目の挑戦でかなえた夢、これまでのこと、そしてこれからのことを語るその口ぶりは歯切れよく、厳しく、熱く、そして時に温かい。今回は挫折から多くを学び伝える笑顔の素敵な経営者からのプライスレスメッセージ。その前編です。

今、中小企業にかけているもの

−本日は何度も事業に失敗ししながら8度目で再起、成功された。たこ焼きの虎屋多幸兵衛の塩崎相談役にいろいろとお話を伺いますまずはじめに最近、暗い話、厳しい話が多いですが今の社会情勢をどうご覧になりますか。

 みじめな時ほど深く考える、そういう時ほど成長していく。よく漫才師が腕を組んで「なんでだろう、なんでだろう」とやりますけれど(笑)、実際に腕を組んで「何でだろう」と考えるとピッといい考えが浮かぶ。そういうものなんです。
 特に商業者のありかたとしては創業者の理念を忠実に守ること。これは先祖を敬うということですね。それから勇敢であること。チャレンジ精神ですね。責任感をもって何事も真剣に。忍耐と持続の人に。誠実と謙虚の人に。たゆまぬ研鑽を。これが社長、経営者のありかたなんですね。いろいろありますが、人の上に立つリーダーが弱かったら、周りの社員も不安になりますよね。

−最近はそういうことができていない経営者が多いということでですね。

 結局、中小企業の経営というのは、大企業のまねをしたらだめなんです。例えば土日、祭日に大企業と同じように休んでいたらだめなんですよ。人が休んでいるときに働かなければだめなんです。
 それを大企業のまねして、従業員が10人20人の会社なのに大企業の社長の気分になって、土日休んで、祭日も休んでそれでは苦しくなるのは当たり前ですよね。 そのうえで中小企業のリーダーというのはいい意味でワンマンでなければだめなんですよ。「俺について来い」というくらいの器量がないとだめなんですよ。 ところが大企業になるとワンマンではやりきれなくなるから組織を作らなければいけなくなるわけです。
 それからつながりです。私の丁稚奉公当時は住み込みですから、親方も弟子たちも同じ釜の飯を食っていて連帯感があった。ところが今は住み込みじゃなくて通勤ですよね、心がバラバラになりがちなんですね。日本の企業も欧米化しすぎてしまったんですね。欧米化していい部分と悪い部分があるわけですね。

−そのあたりは大きいですね。

 結局職人さんを馬鹿にしてしまったからおかしくなっているわけですよ。職人というのは、うちの場合も職人技ですが、手仕事と言うのは立派な文化でその担い手なんですよ。ところが歴史と文化を破壊してしまっているからおかしくなってきているんですよ。
 その一方でエリートは悪いことばかりやっているわけですよ。例えば車で走っていて、右折しようとするとダンプの運転手さんは入れてくれますよね。ところが高級車はなかなか入れてくれないですよ。
 ダンプの運転手さんというのは、汗水流して仕事をしているから、いかつい格好をしていても優しさがあるんですね。ところがエリートというのは机の上だけの仕事で優しさがない。しかも持っているのは知識だけなんですね。一方職人さんというのは体で仕事を覚える。これが本当の知恵者なんですね。

−机上の知識だけではだめだということですね。

 知識と知恵ですね。現場に立つことです。サントリーの理念は鳥井さんがつくった「やってみなはれ」ですよね。今の経営者を見たら、「長時間会議をやっている暇があるんだったら現場に立て」と叱りますよね。
 今は社長室に閉じこもってしまって、部下に仕事を取ってこい取ってこいという経営者が本当に多いんです。クマが穴倉に閉じこもるのと一緒ですよ(笑)。こういう時はリーダーは外に出て暴れなければだめなんです。

マニュアル通りではいいものは作れない

−やっぱり暴れなければだめですか(笑)。今手仕事は文化だとおっしゃいましたが。

 そうですね。手作りというのは頑固一徹でないといいものは生まれないんです。ところが今はフランチャイズですよね。あれは保証金を何百万円か払えばすぐに明日からでも、簡単にできる方法を教えてくれるんです。マニュアルがあってマニュアル通りにやるだけですから、それではいいものは生まれてこない。

虎屋の厨房

−やはりマニュアル通りにやるのではダメなわけですね。

 もちろんです。私たちは店の厨房に立つと、いつも今日は昨日よりもおいしいものを作ろうという気持ちですから、火の調節一つにしても慎重にやりますよね。機械的に作るのとは全然違います。

−どうしても真剣さが違ってくるわけですね。

 ですからうちにはこういう経営理念があるんですよ。「ひとつひとつ真心こめて技術で表わす感謝の気持ち」。実は虎屋を大きくしてくれたのは子供さんなんですよ。子供は店に入ってくると厨房の近くに立ってじっとたこ焼きを作るのを見ているわけです。子供が一生懸命に見ているからこちらも真剣に一つ一つにたこを入れていくわけです。そうすればいいものができます。これが一つ一つにまごころを込めるということですね。ところで今日東京から来て、こんな山の奥に店があってびっくりしませんでしたか。

−確かにここのお店は立地としては、少し不便なところにありますね。

 実はうちは電話での予約が多いんです。ということは朝、開店してもいつお客さんが来るか分かんないんです。ですから、つくり置きしておいて、さめたやつをお客さんに出したら、それでお客さんは懲りちゃいますよね。だからうちはお客さんの顔を見てからでないと焼かないんですよ。
 ところが、中には未だに入ってきて、「何だお前のところは焼いてないのか」と言うお客さんもいる。そういうお客さんには「お客さんね。ラーメン屋さんでは待てるでしょう。同じように10分ほど待ってもらえればおいしいたこ焼きができますよ」と。電話の予約を中心にしますが、電話をいただいたお客さんには感謝袋を差し上げています。大阪弁で「感謝銭袋でおます」とあって中に20円が入っている。これは何かというと「毎度おおきに、今回の電話代でんがな」とある。それからもう1枚は「次回の電話代でんがなと。またよろしく頼みまっせ」と。

感謝銭袋(表・裏)

−なるほどそれで20円なんですね。

 これは私が店を終わってから、広告のチラシの裏の白い部分を使って作っているんです。そうしたら、あるおばあちゃんがこれを見て、「虎屋というのは袋貼りを一生懸命している、感動した」といって、私が作った「銭袋」を20枚ほどためて持ってきてくれたんですよ。これはうれしかったですね。こういうのは袋を印刷してしまったら意味ないですよね。心が入らないんです。
 しかしこういう当たり前の何でもないことが、口コミとなって広がっていくんですよ。

−手造りだから気持ちが伝わるんですね。

 ところが中にはお金だけを取り出してごみ箱に捨てていく方もおられます。残念ですね。他にも気持ちを伝えたいということでは、年に一回チャリティをやっています。今年で30回を迎えて感謝状もいただいています。
 1箱100円で1人10箱までですね。うちは朝10時開店ですが、その日は6時ごろから人が並んでいますよ。

−普段より安く販売されるわけですね。

 はい、チャリティーの時は特別に8個入りのたこ焼(420円相等)の物を100円で販売します。
 しかも888箱限定販売なんです。これは8というのは末広がりで縁起がいいということ、それと昭和8年8月に先代である私の父が始めたということもあって888箱の限定にしているんです。

困窮の子供時代、偶然からたこ焼き屋を継ぎ成功

−少し相談役のお父さんの話をお聞きしたいのですが

 私の父は病身で、それこそ母が後家同様にシジミの行商をし、それが終わるとガード下の屋台の店でたこ焼屋を夜遅くまでやって家計を支えていましたが、苦労して稼いだその売り上げもほとんどが父の医者代になってしまい、子供のころは経済的には相当厳しい環境でしたね。
ですから、私も小学校1年生の頃には、ちょうど終戦の年でしたが、母を手伝ってシジミの行商をしていました。幼い私に母はよく「こんなに一生懸命やっているのに神も仏もないものか」と愚痴をもこぼしていましたね。しかし、母が偉かったのは夫に対しての愚痴は絶対に言わなかったことです。
後年、何度も倒産して裸になってしまった時には、よく父母が言っていた言葉が走馬灯のように浮かんできたものでした。やはり父母が守ってくれているんだなと思いましたよ。ですから店の中には母の写真を今でも置いているほどです。母は明治35年生まれ、八白の寅年なんですよ。虎屋というのはその寅年からつけたものです。つぶれても、つぶれてもこの名前は変えませんでしたね。

−最初は相談役のお父さんがたこ焼きを始められたのですか。

 そうです。大阪の天満の橋のたもとで、屋台で始めたんです。当時は日本も戦争に負けたばかりで、道具もなかったんです。父はそうした道具も全部自分で作っていまして、非常に器用でしたね。

−学校をでてすぐにたこ焼き屋を継がれたんですか。

 小学校4年の時にそろばんの二級を取っていて、数字に強かったこともあり中学を卒業する時に東海銀行の就職試験を受けたんです。そうしたら受かってしまいまして(笑)、それで本当は銀行に勤めるはずだったんですが、その後運命が変わってしまいまして(笑)、というのはその時の銀行の初任給が大卒でも5000円だったんですよ。中卒だと3000円でした。そうしたらうちの母がそれではとても家族を養えないと。

−その時には経済的には一家の大黒柱であることが期待されていたわけですね。

 そうですね。学校の先生はせっかく銀行に受かったんだからと言って親にも東海銀行に入るように強く勧めましたが。結局うちは貧乏でしたから銀行に就職しないで、遠洋マグロ漁船に乗り込んだんです。これはもう単純に金になったからです。それこそインド洋まで、あの北朝鮮の工作船のようなちっぽけな船で(笑)行ったんです。しかし、3~4か月の一航海で入ったばかりの私のような初年兵でも15万円もらえました。当時は一年で家が建つとまでいわれましたからね。

−ご家族はずいぶん喜ばれたのでしょうね。

 ええ、全て仕送りをしましたからね。実際には私は住込みだったから、親方が仕送りをしてくれました。ところがある時、船の上でアキレス腱を切ってしまったんです。16針縫いまして、清水の船員病院に半年間入院しました。たまたまそのリハビリ中に清水の浅間神社という大きな神社で縁日がありまして、そこに杖をついて行ったんです。的屋が「いらっしゃい、いらっしゃい」と呼びかける中をずっとみてまわったら、どこも繁盛していて金入れ代わりの一斗缶にいっぱい金が入っているわけです。
 ところがたこ焼き屋が一軒もないのです。これだと。あんな屋台でしょぼくれてやっているよりも、縁日でやったほうがはるかに儲かるだろうと。これで人生が変わったわけです。さっそく親方に申し出て、船を降りたんですが、その時自分の給料はすべて母のところに仕送りしてあると思っていたのですが、親方が「塩崎、まだ別にお前の預り金がある」とそういって出してくれたのが70万円もありました。今のお金でいうと1000万円くらいですよね。

−そのお金を元手にしたわけですね。

 そうです。当時その的屋さんのやり方を見てみると、自転車、あるいはリヤカーで商売していたんです。けれどすぐに私は、「くろがね」のオート三輪を買って、これが当時50万しました。やっぱり全国を回りたかったので、そうするとリヤカーではとても無理ですからね。的屋仲間ではオート三輪を持っているのは私だけで、それで全国の縁日をダーッと回ったわけですよ。そうしたらどこでも行列ですよね。

−ズバリ読みが当たったわけですね。

 ところが翌年行くと、地元の親分がみな真似してやっているんです(笑)。
 それを見て、俺はこんなことをいつまでもやっている器ではないと考えまして 今度は東京のデパートに売り込んだんです。これが昭和36年のことでした。
 そうしたら上野松坂屋で快く受けてくれて、松坂屋の中に店を出すことになった。そしてそれがまたヒットしたわけです。私は生まれが昭和12年ですから20歳そこそこでのことでした。

身内同士の争い、酒と女に溺れる

−しかし先見性もあり行動力もあり結果も出したのに7度まで失敗してしまうわけですね。失礼ですがそれはどの辺りが原因だったのでしょうか。

 まず、肉親、兄弟同士の争いです。実は私も兄弟がみんな貧乏な時は仲が良かったんです。ところが一緒にやっていたたこ焼き屋がうまくいき始めると、金を巡って骨肉の争いになってしまったんです。それでバラバラになってしまったんです。
 私は三男坊で長男と次男の2人はもうすでに亡くなっているのですが、今から思うとあれだけ兄弟喧嘩もしたけれど、今兄貴たちが生きていれば喧嘩もできたし、一緒にどれだけの仕事ができたのかとしみじみ思いますね。

−やはり兄弟とはそういうものなんですね。

 そうですね。例えば嫁同士がうまくいかないとかいうこともありますしね。だから今3人の子供には将来的には、ただ一緒にやるのではなくて独立採算制で、長男は長男の店、弟は弟の店でそれぞれが自分たちの城を持ってそれで仲良くやれと、そう言っています。
 それから肉親の争いに加えて、恥ずかしながら私の場合は酒と女ですね。実際、酒と女は魔物だよね(笑)。私は26歳までまったく酒も飲まないし、煙草も吸わなかった。その頃は金の亡者で金を貯めることばかり考えていた。ところがたこ焼きが当たったら、一気に大金が入ってきまして、それで飲み歩いたら、これが楽しくて、楽しくて。金があったからもてましたからね(笑)。
 しかし、今考えるとそれでも私は水商売の女と金で遊んでよかったと思いますね。これが堅気の女だったら大変でしたね(笑)。後から慰謝料がどうのこうのと言われることもありませんでしたね。自分で稼いで自分で遊んだんだから後腐れもなかったということです。しかし、裏目に出るとまさにアリジゴクですね。もがけばもがくほど落ち込んでいく。
 結局、私は7回倒産しましたが、喩でいうと6回までは、木があって高い枝にぶら下がって「助けてくれ、助けてくれ」と言ったら、親兄弟などが下してくれたんです。ところが7回目にはみんなが、「あいつはだめだ。ほっとけ」と愛想を尽かされてしまって、枝からドスンと下に落ちてしまったんです。
 このドスンといった時に自然と手が合わさったのですよ。いかにこれまでおれは感謝の心がなかったのかと、この時はワラをもつかみたいような気持だったわけです。

−そうすると失礼ですがそれまではおごりみたいなものがあったわけですか。

 そうです。経営者というのはみなおごりで失敗するんです。本当はこういう不況の時こそ原点に戻らないとだめなんですね。スタートの時はみなある意味で謙虚なんですよ。純粋に会社を大きくしよう、仕事をしたいと思って起業するわけです。

−しかし7回の失敗についてもほとんどはいったんは成功していますよね。

 そう、いつも赤字ではなかったですからね。ですから酒と女にくるわなければ、ひょっとしたら松下幸之助さんみたいになってたかもしれないですね(笑)。実際、今はこれだけたこ焼きが広まっていますからね。
 思うに、これを言うとみんな笑いますけれど、人間の才能にはそれほど差はないんですよ。違うのは仕事への情熱なんですよ。私は女へ情熱を持って行ってしまったけれど(笑)、YKKの吉田さんにしてもホンダの本田さんにしても成功した人は仕事に情熱を持っていたわけですよ。私の場合仕事に情熱を持って行ったのは少し遅かったのかもしれませんね(笑)

失敗することで得られた多くのこと

−なるほど、しかし今になってそういう経験が生きているわけですね。

 私は失敗してよかったと思っています。成功すると遊ぶことしか覚えない。本屋に行くと成功の話しがいっぱいありますが、あれを読んで成功するかというとそんなことはないですよね(笑)。カリスマ性がないとだめなんですよ。商売は計算通りに絶対行かない。計算通りに行くんだったら銀行の支店長クラスが脱サラでどんどん成功しますよね。いずれにせよ、こうした経験がなければ今の私はないですね。

−確かに計算通りにはいかないですよね。

 「損だ、得だ」と損得で計算してはだめなんですよ。同じ「そんとく」でも「尊徳」でないとだめなんです。「己をむなしくして人を尊ぶ」といって相手を尊敬するということ、それから徳というのは感謝という意味ですね。基本は親孝行です。今、商道徳があらためて問われていますよね。友達の近くに平気で店を出して、友達のところがつぶれても自分さえよければそれでいいだとか、昔の人はそんなこと考えもしなかった。
 今の日本人の精神に欠けているのは間違いなく倫理と道徳ですね。

−今は儲かっていれば勝ちだという風潮がありますよね。

 そう、自分たちがよければいいという感じですね。ところが今、東京商工リサーチの調べでは70%の企業が赤字なんですよね。それで老舗がどんどんつぶれているんです。特にバブルの時に株をたくさん買ってもうけてそれを本業に投資すればよかったのに新しいものに手を出して、多角化に走った経営者が多かった。本業をおろそかにしてしまったのですね。それで沢山の老舗がつぶれてしまった。ところが京都では老舗がたくさん残っているんですよ。中には千年の創業という店もありますからね。それはなぜかというと京都の老舗は江戸時代の家訓を守っているところが多いんですよ。一軒の店を何代にもわたって守り続け、無闇にいろいろなところに店を出すということがないんですね。
 実際、京都からはあまり東京に出てこない。京都から東京に出てきて成功したというのは京セラの稲盛さんくらいですからね。これも稲盛さんはもともと鹿児島の出身で生粋の京都人ではないですからね。
 同じ関西でも大阪商人は間口を広げて「いらはい、いらはい」と時にはったりも交えて派手にやる。京都の場合は税金の関係だといいますが、どこも間口が狭くて奥に品物を隠していますよね。大阪人は目立ちたがり屋ですが、その点、京都人は質素ですね。

−しかし江戸時代の家訓が今の時代にもうまくあてはまるのですか。

 これは当てはまるんです。例えば京都のある唐辛子の老舗では、清水寺の容器に入れて2千円、3千円で売っていますが、これはかなりの付加価値をつけていますね。ブランド化して器でとっているんですね。京都の料理もみんな器ですよね。いい器にちょこっと入れて金をとっている。やはり付加価値を付けないとだめなんです。

あらためて勉強の大切さに気付く

−付加価値を付けるということは、著書を拝見いたしましたが、例えば人の場合はそれぞれが勉強するということでもあるわけですよね。

 私は中学しか出ていませんが、毎晩のように100万ばかりの金を持って銀座、赤坂辺りを飲み歩いていた。本当に死に金を使っていましたよね。 だから教養も全然なくて、その頃のことを振り返るとスポーツ新聞ばかりよんでいた(笑)。銀座のバーでの話題提供にはなったけど、そんなの社会に出たら通用しませんよね。それに、失敗した後になって気づいて勉強しようとしたんだけれど、裸だから新聞をとる金もなかった。そこでどうしたかというと、しょうがないから上野駅まで新聞を拾いに行った。これが私の勉強の始まりです。そのあとずっとスクラップを続けています。25年くらいになりますね。

−かなりスクラップには力を入れて独自のものを作られているということですが。

独自のスクラップ

 スクラップ作りですから、そんなに難しいことではありませんが続けていくことで大きな力、財産になっていますね。ただし、基本的には人のやることを真似するのではなく、自分だけのやり方でやっています。
 具体的には台紙を付けて新聞ごと記事ごとに一冊の本になるようにしています。これを30年間、1万日までは挑戦していきたいと考えています。それができたら資料館を作るのが私の夢なんですよ。毎日新聞コーナー、日経新聞コーナーという具合ですね。これを全国紙でやってます。連載漫画だって切ってスクラップにすれば1冊の漫画になる(笑)。天気予報もあります。結局捨てるところがないし、それどころか表と裏で同じ新聞が2部必要になります。
 講演でこの話をすると親切な人が全国から新聞を送ってきてくれるんですよ。これを完成させようとすると遊びに行く時間がもったいなくなる。だから毎朝3時に起きてやっているんです。これらはもちろん講演や本を書く時のネタにもなりますし、気が付いたことをメモにして、ポケットに入れておけば何かの集まりで急にスピーチを指名されてもこれが話のネタになる。「私は話すのが下手だからなんて言っているとそれだけでチャンスを逃すことになる。
 舞台に上がって恥をさらけだしててもいいんです。カラオケでもそうですよね。「私は音痴だから」と言って歌わなければいつまでたっても音痴のままです。 面前で恥をさらけ出せば、次はちょっとこうしようとか工夫もできるわけです。人生恥をさらけ出すことも大事なんですね。いずれにしてもスクラップとはいえこれだけ徹しないと本物は生まれない。

−確かに話題には事欠きませんよね

 私が講演で「出世、成功の秘訣はなんですか」と皆さんに尋ねると、皆さん考えすぎてなかなか答えが出てこない。実はこれは人に好かれることなんです。
 これはまず素直だと好かれますよね。それと好かれるには話題を持たないとダメですね。よく英雄気分、お山の大将気分でしゃべる人がいますよね。第一印象はいいんですが、2回目、3回目にも同じ話が出てくると閉口しますよね。ところがいろいろと勉強しているといろいろと話題を変えられるわけです。

人の縁、人生は出会いで決まる

−人に出会うということでは、相談役は人の縁に恵まれていますよね。

 本当に縁ですよね。人生は出会いで決まるんですよ。いい人と出会わなければだめなんですよ。人と出会った時に勉強していれば自分にとっていい人なのかどうなのかという見極めがつきますよね。
 私にとっての出会いは何と言ってもYKKの吉田さんとの出会いですよね。7回目の倒産の後、まだ8回目の商売を始める前に、いろいろ勉強していた時に発明協会で私の考案したあるものが入選して、東京の椿山荘で表彰式と懇親会があったんです。その時に私の隣に「吉田」というネームつけたお年寄りがいて、ビールを飲んでいたんですよ。私はその人がYKKの有名な吉田さんだとは知らなくて、そこら辺のただのおじさんだと思っていたんです(笑)。それで酒を飲んでいるうちに「吉田さん、実はね私は、酒と女で失敗して7回も倒産してしまった。穴があったらもぐりたい心境で、今は反省、反省の毎日です」と言ったら、その吉田さんがパッと立ち上がって、「君、いくつになる?」と言われたんです。酒と女で7回も失敗したなんて言ったからこれは怒られるかなと思いまして(笑)、小さな声で「42歳です」と言ったんです。そうしたら「君、素晴らしい」というんですよ。その場にいた本田さんなども皆こっちに注目して、その中で私が「何が素晴らしいのですか」と尋ねたら、「いや、塩崎さんね。人生ではそういうことに気が付かないで死んでいく人がたくさんいる。それを君は42歳で気付いたというのは素晴らしいことだ」とそう言われたんですよ。そして「人生というのは山道を重い石をヨイショ、ヨイショと持って行って、足を滑らせて転がり落ちるというその繰り返しだ。私たちも君の年代のころには挫折、挫折の連続だった。山登りというのは7合目まではスムーズにいくけど、実は8合目あたりからは気圧がさがって空気が薄くなる。あなたはウサギのようにぱっぱと来たけれどそれに気づかずに何度も足を滑らしてきたんだ。8合目からは今度はカメで行きなさい。カメになって一歩一歩着実に進んで、一番上にヨイショと思い石を積んでそれで成功なんだ」とわかりやすく説明してくれて、私はその間じっと聞いていましたね。素直だったんですね。結局、ワラをも掴みたいような心境でしたから人の話を素直に聞けたんですね。それを見た吉田さんが「君は大きくなるぞ」と言ってそのあと席を外して帰られた。
 その後にあの方はどなたですかと周囲の人に聞いたら、あきれたように「塩崎さん、知らなかったのですか。あの方はYKKの吉田さんですよ」と教えてくれた。また驚きですよ(笑)

−本当に驚きですね。

 ええ、ここで大事なのは人の話を聞いて気づいた人が成功するということですね。結局吉田さんに言われたのは「あなたは実業家のタイプではなく、職人さんのタイプだから、ウサギではなくカメで行きなさい」ということだと思うんですね。さらに「職人というのは人を使うのが下手だから、コツコツと家族でやりなさい」と教えてくれたんだと私は解釈しています。それで私は、そのあと家族6人だけで団結してやって、23年間かけて3億8千万円借金を返したんです。

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☆★☆★ ☆★☆★ 後編につづく ☆★☆★ ☆★☆★